蜘蛛の巣の写真集

ハレの日のケ、ケの日のハレ

性のグラデーションは色度図に似ている(書きかけ)

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色度図

性差のグラデーションは色度図に似ていると思う。
ジャパンの慣習に倣って男を青、女を赤としよう。逆でも良いんだけど。青は一色ではない。空色も群青も翡翠も青かもしれない。桃色もレンガ色もラズベリーも赤と言えるだろう。ミカン色は女だろうか。ブドウは男だろうか。レモンは? 白桃は? マスカットは? ブラックベリーは?

男がいて女がいて、オカマがいてオナベがいてホモとレズがいる。30年前わたしが子供の頃に知った世界はそんなだった。
その更に30年前はオカマは夜の仕事しかできなくてテレビに出るなんて大事件だったと聞いた。
今じゃオカマだのオナベだの、死語だけれど。

男がいて女がいる。それぞれ異性愛者と同性愛者がいる。さらにそれぞれ性自認と体/染色体が一致しない人がいる? 大人になりながらわたしが知った世界はそんなだった。

わたしは女。体も、染色体もたぶん女。異性愛者。でも“女度”は高くない。そして女々しい。

数ヵ月前、あるサイトにメールした。グッズ紹介のページで、海外製の刺繍キットの見出しに「女の子へのプレゼントに」とあったのが引っ掛かったのだった。「針仕事は女のもの」と子供の頃から染めるのはおかしいと思った。害しかないと思った。商品のデザインは、女の子を意識してはなかった。
メールの文面には、批判は含めなかった。「男の子も楽しめそうな商品なので、性別を限定して興味の芽を摘んでしまうのは勿体ない」というようなことを書いた。ジェンダーに閉じ込められる窮屈さから未来の子どもを解放してやりたい。トランスジェンダーの子のことも思った。
女らしさ、男らしさという言葉で表される性の差のは、傾向としては実際にある。
個体がその性別らしさを有していることは生物学的に優れていること、社会的に理想的なことなのだろうと思う。親が子どもをその性別らしく育てたい気持ちを持つのも分かる。問題は強要されることであって、性差そのものは、、傾向として、ある。その生物学的に理想的な状態(という言い方はかなり乱暴で差別そのものだな…)から外れていることを、そのうえさらに、虐げなくて良いじゃんか、強要したり見下したりすんなやって思う。まだ私の中でもまとまっていないのだけど、
、えっと、女らしいと誉めることと、女らしくしろと言うことは、まったく別のことだし(ここ重要)。
そして、何を女らしいと言うかが問題で。例えば女らしいとされる、料理好きとか綺麗好きとか繊細とかは、性差の傾向を語るなら男は両極端で、女は分布がなだらかなのだ。
どちらかが役割を担うって場合は分布のなだらかなほうにしたほうが支障ないというだけの話。
男らしいとされる性格も、男は分布がなだらかで女は両極端。太古、男は皆で狩りして女は皆で村を守るようなスタイルには、女らしい男や男らしい女の存在は、活躍したろうな、だから、、矯正されるようなこともなかったろうなとふと思った。

“オカマ”“オナベ”なんて、本当はいないのだ。男色にも女色にも寄せないで生きる選択が容易い世の中ならば。自分の色のまま生きられるのなら。