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蜘蛛の巣の写真集

ハレの日のケ、ケの日のハレ

恋について

これは恋についての比喩なのだけど。運動神経のある人ほど良い自転車を買う。運動が好き、楽しいからね。私は坂道を立ち漕ぎでのぼる体力もなければ電動自転車を買う財力もない。いっそ電動三輪車にあこがれている。比喩としてそれがどういう恋かは分からないけど。
男女間の恋愛は存在するかという問いへの反応、「あるに決まってるじゃん、オトコ・オンナの前に人間でしょ」勢も「ない。」勢も、あと私がこれなのだけど「ある、けど条件がある。心得るべき事柄もある」勢も、それぞれに「ある/ないと主張する人達(自分と違う感覚の人達)、キモい、不潔、未熟じゃね?」というニュアンスを感じませんか。
男女間の恋愛は存在するかについての答えは、先に言ってしまうと吉野朔実『恋愛的瞬間』に明確な答えが書かれている。そもそもまず友情は「「相思相愛でありながら抵抗によって達成できない疑似恋愛関係」」(二重カッコ内引用、以下同)なのです。そして恋愛は「「あらゆる抵抗に打ち勝つ相思相愛の力」」なのです。

という下書きが8/20に残されていた。続きを書く気は今のところもうない。私が何を言いたかったのか、もう忘れてしまった。

この世界の片隅に

2016.11.25

この世界の片隅に
感想書こうとするといろんな場面がパッと浮かんで、私が語らなくてもなぁ…という気持ちになる。でも書く。ネタバレ無し(のハズ)。
戦前の広島の街の建物がカッコイイ。おめかしした人々が街を行き交う。レトロ萌える。めちゃくちゃ史実に基づいてるらしい。戦後で言う平和祈念公園のあたり。
実験的なアニメーション表現。主人公の感覚や感情が生々しく雪崩れ込んで来る。絵を描くことが好きな主人公の手の動きを通した描くということの疑似体験に心震える。
この世界の片隅に”は、戦前と、いつのまにか戦中になって戦争という日常…ご近所づきあい、裁縫、炊事、お勉強…を生き、戦争が終わるまでの話だ。戦争の話だけれど“正しい私”モードにならずにいつもの自分で観た。変なところで涙が出る。んで普通に笑う。戦争の恐ろしさ、繰り返してはいけない、みたいなことは意識にのぼって来なくて、健康な心と体と人間関係、日々を生きることを思った。
映画のあとに読んだインタビューによると、原作者は作品に“思想”を登場させないことに努めたという。
おなじ戦争アニメの“蛍の墓”は幼少期の体験を基にした小説が原作で当然そのことによるリアリティがある。“この世界の片隅に”は原作の漫画家もアニメ監督も戦後生まれで、戦後の気配すら微かにしか知らないかもしれない世代だ。でもそのことによるリアリティというのがあるのだと感じた。当事者でないことによるリアリティは絵本『希望の牧場』でも感じたことだった。
観た直後は「いやー」「あうあー」しか言えなかったんだけどなんとか記録。以上。
http://konosekai.jp

外猫との意思疎通について(2013)

f:id:nahoshitsu:20160920181224j:plain以前、ひとり歩きで町猫に会ったら猫語で話かけていた。本気のニャーで。私と貴方は対等です、貴方との出会いを喜びます、といった気持ちをこめて。
その頃は猫と暮らしていてネイティブな発音だった、猫は驚いて私の顔を見る。しばらく猫のいない生活がありそのうち発音に自信がもてなくなった。猫と会っても見つめるだけの日々になった。
その後実家にもまた猫がやってきて、猫の町に引っ越した私は、最近は猫に人語で話かける。まず、猫、と呼ぶ。見つめあう。ゆっくりまばたき。はじめして、おどろかした? 良い天気ね、バイバイ手を振る、そのくらい。
猫語で話かけていた頃のニャーを翻訳すると、餌をくれとでもいう意味になるはずだ、猫が人に要求するときの甘えた声。その猫語しか知らなかった。
自信がなくなって止めた猫語ではあるけれど、それはそれで良かったという気がしている。野生に近い猫ならいざしらず、町猫は猫のほうで人語を理解している。場面にそぐわない猫語で話かけるよりは人語で話したほうが猫の混乱は少なく、関係性から言って自然とも思う。

シン・ゴジラ ネタバレを配慮しない感想

3.11を経験してない人には、この映画を観ても、SNSの描写や傍観する民衆の姿からそのひとりひとりに人生があることがリアルには分からないのではないかなどうなんだろう。国内向け、現在向けに作られてると思った。でも外国にも災害あるし一緒か。イマジンか。
私は民衆のひとりとして映画の中に居た。テレビを観ていた。ツイッターしていた。デモに参加していた。
非被災地にいた私はあのとき金送るくらいしかできることもなくて、ツイッター糸井重里のことばや信頼度の高い情報やエレキのやっつんの笑いをリツイートして、日常を送って血液を送るポンプであろうとしていた、映画の中で描かれていない非被災地の人々もきっとそうだろう。
名無し役を大物有名人が演じてるのは単なるコネタではなくて名無しだけど名無しじゃないんだよって意味かもしんない。避難所はきちんと機能していそうだ。
政治家達、完璧ではないけれど理解できる。しかしこれは風刺である。
みんなかっこ良かった。余さんのメイクも媚びてない。

眼前に広がるなぎ倒された建物。立ち去るときに背をむけずに後ろ向きで数歩歩いて手を合わせたシーンで、以前目黒区美術館でやってたリアス・アーク美術館展を思い出した。人が写ってる写真がたしか一枚だけあって後ろ向きでたたずんでいる。鳥居のまわりの瓦礫がいちはやく片付けられていた写真も思い出した。
壁の絵で竹橋の東京国立美術館のコレクション展で観た戦争画を思い出した。飛行機飛んでる絵。球子の富士山もあった。

国家の中枢、象徴的な建物がガンガン壊される。ゴジラ原発地震津波で戦争だった。

これは数日前ツイッターで見たんだけど、あの世界には怪獣というものが存在してない。ヒバゴンブースカももしかしたらネッシーもいない世界。パラレルワールドだ。
ゴァ・ズィラ…?ゴジラゴジラ
初期形態…良かった…私ちょっと好きだった…。どばどばぶしゅーごぼごぼ…。分厚い牛肉をレアに焼いて切り目を入れたい。ピカー。
石原さとみのやりきってる感とても好きだった。あれがどこまで狙いなのか分かんないけど…最初は動転したけど。。。さとみのお陰でシリアスになり過ぎずに楽しめた。
実日子ちゃんは期待より出番少なかった。けどさいこうだったし実日子ちゃん出てるから観た的な部分あるし出ててくれてありがとう。

スクラップ&ビルド。このパラレルワールドの数年後を見たい。きっと東京駅は元の姿に、高層ビルはメタボリックに、残せる建物は残して、自然は再生して、避難者はいなくなってる。

力強い映画だった。観て良かった。この映画はこの国への批判であり反省であり同時に期待である。

下町人情(2013)

7.5

冷蔵庫の自炊料理を温め返す気力もない。この町に越してきて初めてチェーン店の弁当屋で夕飯を買う。

白髪短髪ハスキーボイスの店員さん、細身でさっくりそっけない。注文して弁当が詰められるのを待つ。前もって割り箸いりませんと言う。あら今言われても忘れちゃうかも。あー言い忘れないようにって急いちゃって。割り箸いらないのよね…あー入れそうになっちゃったほらね。ふふ。ふ。

下町・人情のまち、なんて紋切り型に言う気はないけれど、マニュアルでない言葉や表情に少し元気づけられる。

初めて入った酒屋さんで煉瓦みたいに四角くまとめられた酒粕を買ったらレジでおずおず「ご存知かもしれませんが、残った分は冷凍して保存できますよ」と言われた。丁寧な言葉選びだ。少し私が笑うとあちらも笑う。
前に住んでいた町では土鍋を買って会計終わって店を出る背中に向かって「…底濡らしたら…割れるわよ!」と声をかけられた。ハッと思い出したように。土鍋つかうたびに思い出してしまう。知識とは別、あれは呪いを植え付けられたと思う。
ある八百屋はやたらオマケしてくれる。春菊もモヤシもミツバもしいたけも「お浸しにするとおいしいよ」「佃煮にしなよ」と言って3つずつ売ろうとする。既に傷んでいることには触れずに。
数年前古びた店でレトログッズを物色していたらそういうのは迷惑だと言われた。その時は怯えて謝ってすぐに店を出てしまい、一年後再訪した。商品を買うと決めて手に持っていれば店の人との会話もスムーズだった。なにも買わずにレトロ探しして出ていく客がそれだけ多いということだったのだろう。そのあともう一度行ったときにはサービスまでしてもらった。

人情っていう言葉って、見返りを求めない優しさ、まんべんない親しみ、みたいに使われるけど(語彙不足)、違う。人の情て、もっと人間くさい、性格とか相性とか、気分とか、値踏みとか計算とか、時間経過、いろいろ含まれているから面白いんだよなーと思う。
そこに生の人間の生活がある。態度は本来のとおり感情と連動している。
張り付いた笑顔の店員とケンカ腰な店員しかいない店。こっちの服装によって態度を変えた店。いらっしゃいませの前に叱るように店のルールを宣った店。わっもう来ない!と思ったけど、その日たまたまだったのかもしれない。何回か通ってお互いの心の扉が開いたら、そこが私の居場所になる可能性だってある。
店員と客としての会話の積み重ねから少しずつお互いのことが分かっていく。“暮らす”ことの醍醐味だと思う。

楽しむと楽しい

友人とフリマ的なイベントに行った。時間も体力も限りがあるので好みと違うところはスルーし気味でサクサク見てまわる。
別行動をとったり一緒に見たり自由にまわっていて、この人悪口言わないな、とても良いなと思った。私が好きじゃない物の傾向を口にすると彼女はそれに軽く同意して好きな傾向とその理由を言った。マイナスを否定せずのプラスへの移行。後味がよい。

途中で外で休憩して、結局3周は見た。彼女は気になった店気に入った店でよく会話する人で、質問して、感動を伝えて、次の出店を聞いて(そもそもこのイベントもそうやって知ったのらしい)、ありがとうと言って立ち去る。
一周め私一人で見て「この店の人いちいち話しかけてくるな…」と思った店(私は話しかけられるのが苦手)。彼女と再び行って彼女と店の人の会話聞いてると楽しい。ウワー!と思う。
無表情で商品触るだけの客に話しかける、店の人の勇気をいまさら思う。興味持って質問されたら店の人も楽しいんだなそりゃそうだよなと自分の態度を省みた。自分もそうできる日はあるんだけど。楽しさの差があまりに歴然だった。
イベントを、人生を楽しくするのは自分なのだ。彼女の如く常にありたい…。たぶん彼女は前世で解脱したんだろうなと思うんだけど。

七歳(2007年)

美術展の薄暗い絵本上映室での話。 

上映室にはふた家族分のおこさまと私の6人。四歳前後のチビッコ4人と、七歳くらいの女の子。母親たちは「泣かないのよ」と言い残し外で待機。

導入部、絵本をめくる映像。ゆるい音楽…素朴な楽器の音とこどもの声…a・・a・・a・・a・・・まざりあう。

それに共鳴してチビッコたちがァーーーー…小さく長く声が響かせる。

ピーター・シスのアニメでクスクス笑いが止まらないチビッコたち。暗いしちょっと怖い内容なのだけど、チビッコたちはおかしくてたまらない様子で、くすぐったい声が転がってはねかえって気持ち良い。 

そんななか、七歳くらいのお姉ちゃんが、きちんとした良い子、だった。小さな声で「しずかにして」って、ひとりおとなだっだ。良いんだよ、あなたも一緒に遊びなよ、って思った。ここはそういう場所だから良いんだよ、一緒に笑いな。限界が来たのだろう、途中でお母さんを呼びに退室した。その時も「前すみません」と小さい身体を小さくしていて泣けた。 

こんな小さい子に子守させるのは酷だよーって思ったけど、それも教育かな。お母さんたちはあのお姉ちゃんをだきしめて誉めてあげて欲しい。お母さんたちが来てからはチビッコたちも大人しくなっちゃって、ちょっとつまらなかった。おとなって邪魔。私がいなければお姉ちゃんも自由でいられたのかもしれない、やっぱりおとなって邪魔…。 

それで思ったのが、絵本が相手にしてるのって、この自由な小さい人たちだってことだ。そしてこのお姉ちゃん。絵本は、このお姉ちゃんが、自由なチビッコに戻れる場所になれるかもしれない。 

「絵本はこどものもの」っていうの聞くたび憤りを感じるけど、絵本はそうやって、大人からこどもを守っているのかもしれない。