蜘蛛の巣の写真集

ハレの日のケ、ケの日のハレ

白と黒(フリーペーパー“そのヒグラシ”第4号 特集・嘘つき)

 見抜こうとする。そのままを言葉にしようと思う。でも例えば気を遣う。この人は打たれ弱いからとか、そこまで親しくないからとか、ほんの少しの嘘で包む。あるいはハナから見え方に嘘がある。この人には白くあってほしいとか、信じるために。諦めるために黒を多めに見積もるとか。純白を漆黒と言うことはなくても、白に滲む黒を見ないふりすることはある。嘘は重なって濃くなって、それが善か悪かもう分からない。
 いつでも良いよ気にしないでとか、楽しかったよとか、また会いたいよとか。
 約40年生きて、自分が見えているものが他の人の見えているものとは違うと分かっている。今のこの場所からこの視力で見えるものは貴方の場所から貴方に見えるものとは違う。でもそれを知らないことにして、私には白く見えるそれの裏側が黒いかもしれないことにはわざと触れない。
 子供の頃好きだったクイズ番組のトロフィーを思い出していた。なるほど!ザ・ワールドの、角度によって“?”と“!”に見える不思議なトロフィー……ではなくて、クイズ面白ゼミナールの、角度によって“?”と“逆さまの?)に見える不思議なトロフィー。ああそうだ、記憶も嘘をつくのだった。
 すごく好きだったよとか、私は精一杯やったとか、幸せだったとか、傷付けられたとか。自分にも分からない嘘を支えに生きている。

喫茶チロル(2018)

●11.24
趣味のお出かけ先を調べていてチロルに近いと気が付く

10年以上前の職場のやや近所の喫茶店
5年ほど前に行こうとして見つけられなかったあれは何だったのだろう。記憶通りの場所に記憶通りの顔でチロルはあった
今はGooglemapが土日は12時までなんてことまで教えてくれる
 
11:30
計画より30分遅れて扉を開く
マイさん!(私命名)、白髪は増えたけど変わらない。記憶より可愛い。おかっぱ。黒のパンツ姿
カウンターの中にはリンさん(私命名)、変わらず綺麗に結い上げられた髪、少し雰囲気が柔らかくなった
 
カウンターの前に座る。気になりながら座ったことのない席だ
おぼろげな記憶を思い起こしながら店内を眺める

生き生きした観葉植物
木製の椅子に張られた布の小さな三角模様

店の奥のピアノ

メニュー表が見当たらない
マイちゃん「何になさいますか」「何があるのでしょうか」「モーニングとか」「!(間に合った)ではそれで」「トーストかホットドッグか、」「ホットドッグで、コーヒーで(うわずる)」「ホットドッグとホットコーヒー…」「はい、ホットコーヒーで」
 
ボックス席で初老の紳士が会話している
その手前のボックス席はもう少し若いおじさん達
大きな窓から柔らかく光が射す
シャープの薄型テレビ
飲み物用の冷蔵庫の上に大きな柚
 
カウンターの中からジューと音がする
 
隣のご婦人…リン&マイと同じくらいのお歳…は何か食事しながら「長居しちゃってごめんなさいね」と繰り返し、リンマイと朗らかに麻雀やタバコやガンについて話している。ご婦人「でもありがたいのよ、仕事辞めたのに誘ってもらって」、リンさん「人が減ると高くなるのよ」、客相手ににべもない
マイちゃんはカウンター前で片足で立ったりさりげなく足を振ってみたり自由だ
10年前はこの店はもっとタバコの匂いがしたのではなかったか
今もテーブルには灰皿…透明なガラスのシンプルなもの
 
マイちゃん私にホットドッグ?を運びながら「ほんとは茹で卵なんだけど今日切らしちゃったの、(小声で)こっちのほうが美味しいから」って、コッペパンに千切りキャベツと卵焼きを挟んだもの。ウスターソースがかかってる
柔らかいパン。美味しい
コーヒーも届く。「どうぞごゆっくり」。美味しい。
そういやコレいくらなんだろ。値段聞いてない。でもきっとお安いんでしょう…?(果たして)
 
少し若いおじさんが何か内輪の話をしながらお会計
その会話でマイさんの年齢を知ってしまった
 
お隣のお食事はいつの間にか下げられてミルクセーキを飲んでいる
長居しちゃってごめんなさいね、美味しい…って言ってる
脚付きの丸いグラス
あぁ~今度来たらミルクセーキ飲む!って思いながらコーヒーを味わう

華やかで気取らないカップアンドソーサー
使わなかった(からハナから要らないと言えば良かった)ミルクは小さな銀のあの入れ物に入れられた生クリーム
 
冷蔵庫の上の大きな柚にマジックペンで“鬼柚子”と書かれて…いるな…
12時少し前
ミルクセーキおばさんがお会計
会話が終わるのを待って私も会計(果たして500円であった)
その一連に押されて奥の老紳士もお会計
 
外に出る
振り返る
あぁこの場所はあった
まだある
うれしくてうれしい気持ちで趣味のお出かけ先に向かい歩き出す

性のグラデーションは色度図に似ている(書きかけ)

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色度図
性差のグラデーションは色度図に似ていると思う。
ジャパンの慣習に倣って男を青、女を赤としよう。逆でも良いんだけど。青は一色ではない。空色も群青も翡翠も青かもしれない。桃色もレンガ色もラズベリーも赤と言えるだろう。ミカン色は女だろうか。ブドウは男だろうか。レモンは? 白桃は? マスカットは? ブラックベリーは?

男がいて女がいて、オカマがいてオナベがいてホモとレズがいる。30年前わたしが子供の頃に知った世界はそんなだった。
その更に30年前はオカマは夜の仕事しかできなくてテレビに出るなんて大事件だったと聞いた。
今じゃオカマだのオナベだの、死語だけれど。

男がいて女がいる。それぞれ異性愛者と同性愛者がいる。さらにそれぞれ性自認と体/染色体が一致しない人がいる? 大人になりながらわたしが知った世界はそんなだった。

わたしは女。体も、染色体もたぶん女。異性愛者。でも“女度”は高くない。そして女々しい。

数ヵ月前、あるサイトにメールした。グッズ紹介のページで、海外製の刺繍キットの見出しに「女の子へのプレゼントに」とあったのが引っ掛かったのだった。「針仕事は女のもの」と子供の頃から染めるのはおかしいと思った。害しかないと思った。商品のデザインは、女の子を意識してはなかった。
メールの文面には、批判は含めなかった。「男の子も楽しめそうな商品なので、性別を限定して興味の芽を摘んでしまうのは勿体ない」というようなことを書いた。ジェンダーに閉じ込められる窮屈さから未来の子どもを解放してやりたい。トランスジェンダーの子のことも思った。
女らしさ、男らしさという言葉で表される性の差のは、傾向としては実際にある。
個体がその性別らしさを有していることは生物学的に優れていること、社会的に理想的なことなのだろうと思う。親が子どもをその性別らしく育てたい気持ちを持つのも分かる。問題は強要されることであって、性差そのものは、、傾向として、ある。その生物学的に理想的な状態(という言い方はかなり乱暴で差別そのものだな…)から外れていることを、そのうえさらに、虐げなくて良いじゃんか、強要したり見下したりすんなやって思う。まだ私の中でもまとまっていないのだけど、
、えっと、女らしいと誉めることと、女らしくしろと言うことは、まったく別のことだし(ここ重要)。
そして、何を女らしいと言うかが問題で。例えば女らしいとされる、料理好きとか綺麗好きとか繊細とかは、性差の傾向を語るなら男は両極端で、女は分布がなだらかなのだ。
どちらかが役割を担うって場合は分布のなだらかなほうにしたほうが支障ないというだけの話。
男らしいとされる性格も、男は分布がなだらかで女は両極端。太古、男は皆で狩りして女は皆で村を守るようなスタイルには、女らしい男や男らしい女の存在は、活躍したろうな、だから、、矯正されるようなこともなかったろうなとふと思った。

“オカマ”“オナベ”なんて、本当はいないのだと最近は思う。それは女だ。それは男だ。シンプルに。

恋について

これは恋についての比喩なのだけど。運動神経のある人ほど良い自転車を買う。運動が好き、楽しいからね。私は坂道を立ち漕ぎでのぼる体力もなければ電動自転車を買う財力もない。いっそ電動三輪車にあこがれている。比喩としてそれがどういう恋かは分からないけど。
男女間の友情は成立するかという問いへの反応、「あるに決まってるじゃん、オトコ・オンナの前に人間でしょ」勢も「ない。」勢も、あと私がこれなのだけど「ある、けど条件がある。心得るべき事柄もある」勢も、それぞれに「ある/ないと主張する人達(自分と違う感覚の人達)、キモい、不潔、未熟じゃね?」というニュアンスを感じませんか。
男女間の友情は存在するかについての答えは、先に言ってしまうと吉野朔実『恋愛的瞬間』に明確な答えが書かれている。そもそもまず友情は「「相思相愛でありながら抵抗によって達成できない疑似恋愛関係」」(二重カッコ内引用、以下同)なのです。そして恋愛は「「あらゆる抵抗に打ち勝つ相思相愛の力」」なのです。

という下書きが8/20に残されていた。続きを書く気は今のところもうない。私が何を言いたかったのか、もう忘れてしまった。

この世界の片隅に

2016.11.25

この世界の片隅に
感想書こうとするといろんな場面がパッと浮かんで、私が語らなくてもなぁ…という気持ちになる。でも書く。ネタバレ無し(のハズ)。
戦前の広島の街の建物がカッコイイ。おめかしした人々が街を行き交う。レトロ萌える。めちゃくちゃ史実に基づいてるらしい。戦後で言う平和祈念公園のあたり。
実験的なアニメーション表現。主人公の感覚や感情が生々しく雪崩れ込んで来る。絵を描くことが好きな主人公の手の動きを通した描くということの疑似体験に心震える。
この世界の片隅に”は、戦前と、いつのまにか戦中になって戦争という日常…ご近所づきあい、裁縫、炊事、お勉強…を生き、戦争が終わるまでの話だ。戦争の話だけれど“正しい私”モードにならずにいつもの自分で観た。変なところで涙が出る。んで普通に笑う。戦争の恐ろしさ、繰り返してはいけない、みたいなことは意識にのぼって来なくて、健康な心と体と人間関係、日々を生きることを思った。
映画のあとに読んだインタビューによると、原作者は作品に“思想”を登場させないことに努めたという。
おなじ戦争アニメの“蛍の墓”は幼少期の体験を基にした小説が原作で当然そのことによるリアリティがある。“この世界の片隅に”は原作の漫画家もアニメ監督も戦後生まれで、戦後の気配すら微かにしか知らないかもしれない世代だ。でもそのことによるリアリティというのがあるのだと感じた。当事者でないことによるリアリティは絵本『希望の牧場』でも感じたことだった。
観た直後は「いやー」「あうあー」しか言えなかったんだけどなんとか記録。以上。
http://konosekai.jp

外猫との意思疎通について(2013)

f:id:nahoshitsu:20160920181224j:plain以前、ひとり歩きで町猫に会ったら猫語で話かけていた。本気のニャーで。私と貴方は対等です、貴方との出会いを喜びます、といった気持ちをこめて。
その頃は猫と暮らしていてネイティブな発音だった、猫は驚いて私の顔を見る。しばらく猫のいない生活がありそのうち発音に自信がもてなくなった。猫と会っても見つめるだけの日々になった。
その後実家にもまた猫がやってきて、猫の町に引っ越した私は、最近は猫に人語で話かける。まず、猫、と呼ぶ。見つめあう。ゆっくりまばたき。はじめして、おどろかした? 良い天気ね、バイバイ手を振る、そのくらい。
猫語で話かけていた頃のニャーを翻訳すると、餌をくれとでもいう意味になるはずだ、猫が人に要求するときの甘えた声。その猫語しか知らなかった。
自信がなくなって止めた猫語ではあるけれど、それはそれで良かったという気がしている。野生に近い猫ならいざしらず、町猫は猫のほうで人語を理解している。場面にそぐわない猫語で話かけるよりは人語で話したほうが猫の混乱は少なく、関係性から言って自然とも思う。

シン・ゴジラ ネタバレを配慮しない感想

3.11を経験してない人には、この映画を観ても、SNSの描写や傍観する民衆の姿からそのひとりひとりに人生があることがリアルには分からないのではないかなどうなんだろう。国内向け、現在向けに作られてると思った。でも外国にも災害あるし一緒か。イマジンか。
私は民衆のひとりとして映画の中に居た。テレビを観ていた。ツイッターしていた。デモに参加していた。
非被災地にいた私はあのとき金送るくらいしかできることもなくて、ツイッター糸井重里のことばや信頼度の高い情報やエレキのやっつんの笑いをリツイートして、日常を送って血液を送るポンプであろうとしていた、映画の中で描かれていない非被災地の人々もきっとそうだろう。
名無し役を大物有名人が演じてるのは単なるコネタではなくて名無しだけど名無しじゃないんだよって意味かもしんない。避難所はきちんと機能していそうだ。
政治家達、完璧ではないけれど理解できる。しかしこれは風刺である。
みんなかっこ良かった。余さんのメイクも媚びてない。

眼前に広がるなぎ倒された建物。立ち去るときに背をむけずに後ろ向きで数歩歩いて手を合わせたシーンで、以前目黒区美術館でやってたリアス・アーク美術館展を思い出した。人が写ってる写真がたしか一枚だけあって後ろ向きでたたずんでいる。鳥居のまわりの瓦礫がいちはやく片付けられていた写真も思い出した。
壁の絵で竹橋の東京国立美術館のコレクション展で観た戦争画を思い出した。飛行機飛んでる絵。球子の富士山もあった。

国家の中枢、象徴的な建物がガンガン壊される。ゴジラ原発地震津波で戦争だった。

これは数日前ツイッターで見たんだけど、あの世界には怪獣というものが存在してない。ヒバゴンブースカももしかしたらネッシーもいない世界。パラレルワールドだ。
ゴァ・ズィラ…?ゴジラゴジラ
初期形態…良かった…私ちょっと好きだった…。どばどばぶしゅーごぼごぼ…。分厚い牛肉をレアに焼いて切り目を入れたい。ピカー。
石原さとみのやりきってる感とても好きだった。あれがどこまで狙いなのか分かんないけど…最初は動転したけど。。。さとみのお陰でシリアスになり過ぎずに楽しめた。
実日子ちゃんは期待より出番少なかった。けどさいこうだったし実日子ちゃん出てるから観た的な部分あるし出ててくれてありがとう。

スクラップ&ビルド。このパラレルワールドの数年後を見たい。きっと東京駅は元の姿に、高層ビルはメタボリックに、残せる建物は残して、自然は再生して、避難者はいなくなってる。

力強い映画だった。観て良かった。この映画はこの国への批判であり反省であり同時に期待である。