蜘蛛の巣の写真集

ハレの日のケ、ケの日のハレ

好きなタイプ(2006)(2022追記)

頭がいい人
知識が豊富な人
良い毒を吐く人
飄々としている人
はっきりしている人
現実を見据える覚悟のある人
現実を見極める才能のある人
かわいげがある人
テンションが低い人
たやすく人を誉めない人
自分の言葉で話が出来る人
ケンカ買ってくれる人
少し歪んでいる人
斜めになってない人
汚れていない人
悪い嘘をつかない人

間違いを認められる人
面白い人
笑いを愛している人
笑いたい時だけに笑う人
変な人
素直な人
感動する心を持っている人
自分を大事にしている人
自画自賛できる人
自己嫌悪に陥りがちな人
自問自答を怠らない人
自己受容出来ている人

自己演出しない人
謙虚な人
人を見下さない人
感覚的な人
ひとみしりする人
もがいている人
自分を見失わない人
変化を恐れない人
私のこと好きな人

においの記憶メモ(2006)

プールの更衣室のにおい
メロディオンのもつところのバンドの甘いにおい
梅雨時の街のかたつむりのにおい
草むしりしたあとの手のにおい
失敗してふくらまなかったケーキのにおい

真夏の豪雨の後、アスファルトに張り付いて干からびている、カエルの大群のにおい

おばあちゃんの薬の苦いにおい

白と黒(フリーペーパー“そのヒグラシ”第4号 特集・嘘つき)

 見抜こうとする。そのままを言葉にしようと思う。でも例えば気を遣う。この人は打たれ弱いからとか、そこまで親しくないからとか、ほんの少しの嘘で包む。あるいはハナから見え方に嘘がある。この人には白くあってほしいとか、信じるために。諦めるために黒を多めに見積もるとか。純白を漆黒と言うことはなくても、白に滲む黒を見ないふりすることはある。嘘は重なって濃くなって、それが善か悪かもう分からない。
 いつでも良いよ気にしないでとか、楽しかったよとか、また会いたいよとか。
 約40年生きて、自分が見えているものが他の人の見えているものとは違うと分かっている。今のこの場所からこの視力で見えるものは貴方の場所から貴方に見えるものとは違う。でもそれを知らないことにして、私には白く見えるそれの裏側が黒いかもしれないことにはわざと触れない。
 子供の頃好きだったクイズ番組のトロフィーを思い出していた。なるほど!ザ・ワールドの、角度によって“?”と“!”に見える不思議なトロフィー……ではなくて、クイズ面白ゼミナールの、角度によって“?”と“逆さまの?)に見える不思議なトロフィー。ああそうだ、記憶も嘘をつくのだった。
 すごく好きだったよとか、私は精一杯やったとか、幸せだったとか、傷付けられたとか。自分にも分からない嘘を支えに生きている。

喫茶チロル(2018)

喫茶チロル(2008)

http://nahoshitsu.hatenablog.com/entry/2016/07/10/195043

 

●11.24
趣味のお出かけ先を調べていてチロルに近いと気が付く

10年以上前の職場のやや近所の喫茶店
5年ほど前に行こうとして見つけられなかったあれは何だったのだろう。記憶通りの場所に記憶通りの顔でチロルはあった
今はGooglemapが土日は12時までなんてことまで教えてくれる
 
11:30
計画より30分遅れて扉を開く
マイさん!(私命名)、白髪は増えたけど変わらない。記憶より可愛い。おかっぱ。黒のパンツ姿
カウンターの中にはリンさん(私命名)、変わらず綺麗に結い上げられた髪、少し雰囲気が柔らかくなった
 
カウンターの前に座る。気になりながら座ったことのない席だ
おぼろげな記憶を思い起こしながら店内を眺める

生き生きした観葉植物
木製の椅子に張られた布の小さな三角模様

店の奥のピアノ

メニュー表が見当たらない
マイちゃん「何になさいますか」「何があるのでしょうか」「モーニングとか」「!(間に合った)ではそれで」「トーストかホットドッグか、」「ホットドッグで、コーヒーで(うわずる)」「ホットドッグとホットコーヒー…」「はい、ホットコーヒーで」
 
ボックス席で初老の紳士が会話している
その手前のボックス席はもう少し若いおじさん達
大きな窓から柔らかく光が射す
シャープの薄型テレビ
飲み物用の冷蔵庫の上に大きな柚
 
カウンターの中からジューと音がする
 
隣のご婦人…リン&マイと同じくらいのお歳…は何か食事しながら「長居しちゃってごめんなさいね」と繰り返し、リンマイと朗らかに麻雀やタバコやガンについて話している。ご婦人「でもありがたいのよ、仕事辞めたのに誘ってもらって」、リンさん「人が減ると高くなるのよ」、客相手ににべもない
マイちゃんはカウンター前で片足で立ったりさりげなく足を振ってみたり自由だ
10年前はこの店はもっとタバコの匂いがしたのではなかったか
今もテーブルには灰皿…透明なガラスのシンプルなもの
 
マイちゃん私にホットドッグ?を運びながら「ほんとは茹で卵なんだけど今日切らしちゃったの、(小声で)こっちのほうが美味しいから」って、コッペパンに千切りキャベツと卵焼きを挟んだもの。ウスターソースがかかってる
柔らかいパン。美味しい
コーヒーも届く。「どうぞごゆっくり」。美味しい。
そういやコレいくらなんだろ。値段聞いてない。でもきっとお安いんでしょう…?(果たして)
 
少し若いおじさんが何か内輪の話をしながらお会計
その会話でマイさんの年齢を知ってしまった
 
お隣のお食事はいつの間にか下げられてミルクセーキを飲んでいる
長居しちゃってごめんなさいね、美味しい…って言ってる
脚付きの丸いグラス
あぁ~今度来たらミルクセーキ飲む!って思いながらコーヒーを味わう

華やかで気取らないカップアンドソーサー
使わなかった(からハナから要らないと言えば良かった)ミルクは小さな銀のあの入れ物に入れられた生クリーム
 
冷蔵庫の上の大きな柚にマジックペンで“鬼柚子”と書かれて…いるな…
12時少し前
ミルクセーキおばさんがお会計
会話が終わるのを待って私も会計(果たして500円であった)
その一連に押されて奥の老紳士もお会計
 
外に出る
振り返る
あぁこの場所はあった
まだある
うれしくてうれしい気持ちで趣味のお出かけ先に向かい歩き出す

性のグラデーションは色度図に似ている(書きかけ)

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色度図

性差のグラデーションは色度図に似ていると思う。
ジャパンの慣習に倣って男を青、女を赤としよう。逆でも良いんだけど。青は一色ではない。空色も群青も翡翠も青かもしれない。桃色もレンガ色もラズベリーも赤と言えるだろう。ミカン色は女だろうか。ブドウは男だろうか。レモンは? 白桃は? マスカットは? ブラックベリーは?

男がいて女がいて、オカマがいてオナベがいてホモとレズがいる。30年前わたしが子供の頃に知った世界はそんなだった。
その更に30年前はオカマは夜の仕事しかできなくてテレビに出るなんて大事件だったと聞いた。
今じゃオカマだのオナベだの、死語だけれど。

男がいて女がいる。それぞれ異性愛者と同性愛者がいる。さらにそれぞれ性自認と体/染色体が一致しない人がいる? 大人になりながらわたしが知った世界はそんなだった。

わたしは女。体も、染色体もたぶん女。異性愛者。でも“女度”は高くない。そして女々しい。

数ヵ月前、あるサイトにメールした。グッズ紹介のページで、海外製の刺繍キットの見出しに「女の子へのプレゼントに」とあったのが引っ掛かったのだった。「針仕事は女のもの」と子供の頃から染めるのはおかしいと思った。害しかないと思った。商品のデザインは、女の子を意識してはなかった。
メールの文面には、批判は含めなかった。「男の子も楽しめそうな商品なので、性別を限定して興味の芽を摘んでしまうのは勿体ない」というようなことを書いた。ジェンダーに閉じ込められる窮屈さから未来の子どもを解放してやりたい。トランスジェンダーの子のことも思った。
女らしさ、男らしさという言葉で表される性の差のは、傾向としては実際にある。
個体がその性別らしさを有していることは生物学的に優れていること、社会的に理想的なことなのだろうと思う。親が子どもをその性別らしく育てたい気持ちを持つのも分かる。問題は強要されることであって、性差そのものは、、傾向として、ある。その生物学的に理想的な状態(という言い方はかなり乱暴で差別そのものだな…)から外れていることを、そのうえさらに、虐げなくて良いじゃんか、強要したり見下したりすんなやって思う。まだ私の中でもまとまっていないのだけど、
、えっと、女らしいと誉めることと、女らしくしろと言うことは、まったく別のことだし(ここ重要)。
そして、何を女らしいと言うかが問題で。例えば女らしいとされる、料理好きとか綺麗好きとか繊細とかは、性差の傾向を語るなら男は両極端で、女は分布がなだらかなのだ。
どちらかが役割を担うって場合は分布のなだらかなほうにしたほうが支障ないというだけの話。
男らしいとされる性格も、男は分布がなだらかで女は両極端。太古、男は皆で狩りして女は皆で村を守るようなスタイルには、女らしい男や男らしい女の存在は、活躍したろうな、だから、、矯正されるようなこともなかったろうなとふと思った。

“オカマ”“オナベ”なんて、本当はいないのだ。男色にも女色にも寄せないで生きる選択が容易い世の中ならば。自分の色のまま生きられるのなら。

恋について

これは恋についての比喩なのだけど。運動神経のある人ほど良い自転車を買う。運動が好き、楽しいからね。私は坂道を立ち漕ぎでのぼる体力もなければ電動自転車を買う財力もない。いっそ電動三輪車にあこがれている。比喩としてそれがどういう恋かは分からないけど。
男女間の友情は成立するかという問いへの反応、「あるに決まってるじゃん、オトコ・オンナの前に人間でしょ」勢も「ない。」勢も、あと私がこれなのだけど「ある、けど条件がある。心得るべき事柄もある」勢も、それぞれに「ある/ないと主張する人達(自分と違う感覚の人達)、キモい、不潔、未熟じゃね?」というニュアンスを感じませんか。
男女間の友情は存在するかについての答えは、先に言ってしまうと吉野朔実『恋愛的瞬間』に明確な答えが書かれている。そもそもまず友情は「「相思相愛でありながら抵抗によって達成できない疑似恋愛関係」」(二重カッコ内引用、以下同)なのです。そして恋愛は「「あらゆる抵抗に打ち勝つ相思相愛の力」」なのです。

という下書きが8/20に残されていた。続きを書く気は今のところもうない。私が何を言いたかったのか、もう忘れてしまった。